レーシック手術に関するアドバイスをお話します。今回は手術の流れとどれくらいの費用がかかるのか、という話が中心となります。
キルト展の後も、このメモリアルキルトのメンバーがI.Yさんたち関西の感染者の活動を支えている。
染められた布は干されて、穏やかな色あいに落ち着き、裁断されてホワイトキルトの裏地作りのために各地に送られた。
キルトのパネルは大きいものなので、展示会場選びには、どこの実行委員会も苦労していた。
デパート、体育館、会社のロビーや会議室など様だった。
風変わりだったのは、金沢展である。
商店街のアーケードを会場に選んだ。
近くには有名な近江町市場をひかえ、仏具や衣料品を扱う古い店が並ぶ静かな通り、Y商店街が、この話にのった。
エイズで亡くなった人のキルトということで拒絶反応を示す店もあったが、商店会を支える若主人たちが、キルト展を開こうとする地元の女性たちと一緒になって説得にまわった。
金沢の女性たちのパワーには、目を見張るものがあった。
これまで地元の教育、環境、消費者問題などに関わってきたり、反原発運動をしてきた、三〇代、四〇代の主婦が、実行委員会の中心だった。
代表のI.Yさんは古い寺の住職の奥さんだが、いつもトレーナーにジーンズ。
I.Yさんの活動は、一九八五年ころ、子育てに追われてなかなか外に出られない母親たち同士で、月に一回、自分たち、が会いたい人を呼んで話をきく会を開くところから始まった。
やがてそれは、毎週木曜日にI.Yさんの寺を開放した「オープンテンプル」へと発展した。
I.Yさんたちにメモリアルキルトの情報をもたらしたのは、長野で松本展を開くK.Tさんだった。
K.Tさんは布切れや廃物でひとり人形芝居をして、全国を行脚している女性である。
「オープンテンプル」で公演して、子どもたちや母親たちの熱狂的なファンを作った。
そのためK.Tさんからキルトの話を聞いた母親たちは、ごく自然に「金沢でもやろう」と思ったという。
I.Yさんたちも、これまでにキルトを作ったことがあった。
それは反原発のキルトで、この中心にいるのがM.Sさんだった。
M.Sさんはセイストとしても知られている人だが、自宅の居間を週一回開放し、「紅茶の時間」というオープンハウスをやってきた。
M.Sさんが持ってきた反原発キルトは美しかった。
各人がもちよった二〇センチ四方のキルトをつなぎあわせていくと、四枚の布のつなぎ目が風車の羽根のようになるために「風車キルト」と呼ばれている。
五〇人から一〇〇人分をつないで一枚の布にするが、すでに全国、三〇〇〇人以上の人が、キルトを寄せていた。
「この風車キルトを作っていくなかで、キルトは何て力を持っているんだろうと思いました。
たった二〇センチの布にメッセージを縫うだけなのに、縫いながらみんな、元気になったり明るくなって、次につないでいくと大きな布になる。
そうするとこんなに多くの人がきれトな地球を残したいと思っていることを、何よりも雄弁に語ってくれるんですね。
こんなに小さなキルトにも力があるのだから、エイズで亡くなった人のキルトはどんなにすごいことになるのかしら」M.Sさんは目を輝かせて、メモリアルキルトヘの思いを語った。
「これはどんなに差別や迫害を受けても、その人を永久に心に留めておこうという思いですよね。
そんなキルト、が日本に来ると聞いたら、私たちも絶対見てみたい、関わってみたいと思ったのね。
私たちも『エイズつて何?』と聞かれて、ちゃんと答えられるようにならなくてはいけない。
亡くなった人に申しわけないでしょ。
私たち一人ひとりが、小さなエイズのPRマンになれたらいいと思うのよ」声高にアジテーションをするわけでもなく、地域に作りあげてきた居心地のよいネットワークのなかで、女の人たちが縫い物をしながらエイズのことを考えている、というのは新鮮な驚きだった。
八〇あまりの商店で成りたっている横安江町商店会では、初めのうちは、アーケード中央の場所を貸すだけかと思っていた節がある。
少し変わった外国の展示物だから、商店街への客寄せになればいい。
ところが商店主たちが、実行委員会に出てみると、アーケード街での展示は思った以上に人手と手間がかかること、資金作りも必要なこと、エイズについての学習をしなければならないこと、など次と課題をかかえこむことになった。
そして一時は足並みが乱れて、他の会場を探そうかという局面も迎えたが、何とか乗り切った。
商店会の中心メンバー、布団店の中村嘉男さんは、「なぜうちの通りでエイズなのか、という抵抗がなかったわけではありませんよ。
キルト展の意味がよくわかっていない店だってあると思う。
でも知ってもらえば何とかなる。
私だって、エイズのことをきちんと勉強したのは初めてでしたから」と張り切っていた。
彼らは、理解を求めるために店を一軒ずつ回り、手作りのチラシを配った。
展示が始まれば、貴重なキルトが汚されたり傷つけられたりしないように、目を光らせる係が必要になってくる。
朝と夕には、大勢の手を借りてキルトを倉庫に保管しなければならない。
こうしたこまごまとした努力を、多くの人が厭わなかったのは、美しいメモリアルキルトヘの期待と同時に、地元・石川県の血友病患者の支えがあったからだった。
HIV感染者であるYさんは、自分の仕事の合い間に実行委員会に加わり、エイズや血友病患者への差別について語った。
Yさんは病気のことを親族にも隠しているので表立った協力はできなかったが、エイズを理解するメンバーを増やし、活動の原動力となった。
しかし血友病の仲間のなかには、このようなイベントに対して批判的な人もいる、とYさんは言う。
「本当にビクビクしながら暮らしている。
でも私は血友病患者も、もっと積極的に生きた方がいいと思う。
北陸ではキルト展を見に来る感染者は少ないでしょう。
でも私はここへ来てみて、『わっすごいな、これは』と思ったし、『アメリカの感染者に負けないで、まだまだ闘って生きのびるぞ』と思った。
見に来てよかったですよ」アーケード街の中央に長く続くメモリアルキルトは壮観だった。
道行く人や買物客が足を止めては、“ボランティア”の説明に耳を傾けた。
Yさんはパネルをゆつっくり見て歩きながら、でもエイズという病気を理解して、何らかの行動を持続していく人が出てくるかもしれないからだった。
各地の実行委員会は様なきっかけで誕生し、構成メンバーも一様ではない。
それだけに、エイズに関わるいろいろなタイプの市民を、各地に”発掘”することになった。
乱暴なくくり方をすれば、既成の党派や大きな市民運動には所属していない小さなグループか個人で、人権や医療に関心を持ってきた人が寄り集まった、とでもいおうか。
多くの人を組織したり動員したり、カンパを集めることにも不慣れな“運動のシロウト”たちが、小さな努力を積み上げることで、大きなイベントを成功させた。
全国でのべ二万人をこえる人たちが、キルト展に足を運んだ。
どこの実行委員会をロケしても、日常の活動はひたすらせっせと縫うこいたった。
「ホワイトキルト」の裏地のために、「三千人キルト」をつなぐために、資金集めの小物を作るために、どの人も縫っていた。
松本市のメンバーは、K.Tさんの自宅で開かれる「がらくた座」の人形劇を子どもたちと楽しんだあと、古着をほどいて「ホワイトキルト」の裏地を縫った。
縫いながらK.Tさんは、本を読んで知ったエイズ患者たちの話を語って聞かせた。
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